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更新日:2020年4月1日

明石の遺跡

7. 赤根川金ヶ崎窯跡

 

所在地

明石市魚住町金ヶ崎字大池下
時代 古墳時代
概要

この遺跡は赤根川を北にさかのぼった、印南野と呼ばれる広域な段丘面の水田地帯に位置しています。ここから東の赤根川に向かっては、高低差が約3.5mもある崖面がつくられています。分布調査で傾斜面上から古墳時代(6世紀前半)の須恵器片が大量に発見され、昭和63年に発掘調査が行われることになりました。この調査の結果、赤根川の支流によって浸食された急流の南東突端部、赤根川との最短距離が約60mという地点で古墳時代の須恵器を焼いていた窯1基と灰原、同時期の溝などが発見されました。

 

窯体は、水田耕作のために煙り出しと焚き口が既に失われていましたが、他部分の残存状況が良好でした。窯の残存長は8.1m、窯内における最大幅2.2mで、焼成部の残存長は2.4mありました。この窯体の中から整理箱で約10箱の須恵器が出土しました。須恵器の器種としては杯蓋(つきふた)、杯身(つきみ)、高杯、甕、器台などがありました。そして、焼成に失敗したものを捨てた灰原からは整理箱100箱もの遺物が出土しました。ここからは杯蓋、杯身、高杯、壺のみならず、装飾付き須恵器や角杯形(かくはいがた)土器、特殊陶板(とくしゅとうばん)、土師器の壺などが出土しました。装飾付はそうにはサンショウウオを象った小さな像がつけられていました。特殊陶板の表面は、中央部を中心にほぼ左右対称の文様が鋭利な刃を持ったヘラ状の工具でV字状に削り込まれていました。

 

溝は、本来は小谷筋の自然流路であったものと思われ、焼成された製品を船で赤根川本流へ積み出す際の搬出経路として利用されていた可能性が高いとされています。この溝からは角杯形土器をはじめとする整理箱約80箱の遺物が出土しました。

 

須恵器の製作技術は5世紀中ごろに朝鮮半島から伝えられ、大阪府南部の陶邑窯を中心に生産を開始します。そしてこの技術は5世紀後半から6世紀初期にかけて地方に拡散していきます。本遺跡もまさにこの時期に須恵器生産を開始します。中でもこの窯では、角杯形土器や子持壺、装飾付はそう、筒型器台といった朝鮮半島の影響の強い遺物が出土していることから、窯が築かれるにあたり、そうした技術を持った渡来系集団が大きく関与していたことが想像できます。中でも角杯形土器は、国内では石川県、岐阜県などからのわずかな出土例しか知られていない特殊な土器で、特に窯からの出土した福井県興道寺窯跡に次いで全国で2例目となるものです。また、小像を施した装飾付須恵器は、朝鮮半島の中でも新羅地域に多いことが指摘されています。

 

こうしたことから、この周辺地域の政治的・社会的諸関係を探っていくうえで、極めて貴重な遺跡であるといえます。

 

                参考文献

 

「'98年特別企画 発掘された明石の歴史展-明石のやきもの-」(明石市立文化博物館 1998)

「赤根川・金ヶ崎窯跡-昭和63年度発掘調査概報-」(明石市教育委員会 1988)

 

 

赤根川金ヶ崎窯跡調査風景

調査風景

 

赤根川金ヶ崎窯跡須恵器

須恵器角杯形土器

お問い合わせ

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