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135°のマーク
| 明治43年に石の標識 | 赤トンボの標識 |
| 明石市立天文科学館 | ここにもある135°マーク |
| 明石市を通る東経135°の経度が日本標準時子午線となった訳は、イギリス・ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線を基準(0°)としたためです。 実は、基準となる子午線を選ぶにあたっては、イギリスとフランスの間で激しい対立がありました。 フランスは、グリニッジ天文台よりも9年早い、1667年創設のパリ天文台を通る子午線を本初子午線に主張しました。 結局、1884年の万国子午線会議で、参加した25か国が投票を行い、22対3でイギリスが勝ちました。 この時、日本は大勢に従いイギリスに投票しました。もし、フランス・パリ天文台を通る子午線が、本初子午線に選ばれていたら、日本では富山県東部と豊橋市付近を結ぶ線が、日本標準時子午線になっていたことでしょう。 当然、明石市も「時のまち」ではなかったわけです。明石市にとって、日本標準時子午線 が通ったことは偶然の産物でしたが、明石市民はこの出会いを大切に育んできました。 |
| 明治43年に石の標識 | |
| 明石郡小学校長会の人々が最初に、日本標準時子午線の重要性を認識して、子午線通過地点に標識を建てることを考えました。 そこで、明治43年に教育勅語発布20周年記念事業として、子午線標識の建設が計画され、相生町の国道筋(現在の明石市天文町2丁目)と平野村黒田の県道筋(現在の神戸市西区平野町黒田)の2か所に石の標識が建てられました。 標識の建設費は、明石郡内小学校の教員の方々が月給の100分の1.5を負担されました。 ところが1915(大正4)年になって、日本の地図原点である東京・麻布の東京天文台の経度にズレが判明し修正されたため、この2つの標識も後に、移動されました。 |
| 赤トンボの標識 |
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人丸町・月照寺境内(天文科学館裏)の芭蕉の句牌の西側に、球の上にトンボがとまった標柱があります。
これが赤トンボの東経135°標準時子午線標柱です。
赤トンボの標識の建設
もともと、この赤トンボの標柱は明石海峡を一望できる月照寺の正面に建てられていました。
これは、1928(昭和3)年に野満隆治博士が天文観測で測定した結果、東経135°子午線が明石の名勝・人丸山月照寺境内を通過することが判明したためです。
除幕式は1930(昭和5)年1月26日に行われました。 この標識は、高さ約7m、直径15cmの鉄柱で、上部に子午線を形どった籠状の玉が乗っています。 トンボのモニュメントは、その玉の上に真南に向かって取り付けられました。 この標柱、夜には、玉の内側に取り付けられた赤いランプが点灯しました。 標識の設計者は、神戸高等工業高校の古宇田実博士で、当時としては、新しい感覚のデザインでした。 1928(昭和3)年の天文観測と"トンボの標識"の建設費は、合わせて1,192円55銭。 その内訳は、標識建設費608円、天文観測関係費478円8銭、除幕式典費106円47銭、雑費12円。 明石市民の子午線に対する意識は高く、これらの経費のうち459円40銭は、県立明石中学校、明石市立高等女学校、明石女子師範学校、人丸小学校、明石小学校、大観小学校の児童・生徒と教員のみなさんの寄付によるものでした。 しかし、残念なことに太平洋戦争中、米軍の空襲により、人丸山の子午線標識も戦禍を受けました。 戦後の赤トンボの標識
トンボの由来
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明石市立天文科学館
山陽電鉄人丸前駅下車北ヘ200m、徒歩約3分。 ホームからもひときわ日立つ青い時計の文字盤は、「時のまち」のシンボルです。 高さ54mの塔の頂上にある直径6.2mの大時計は、(独)情報通信研究機構から発信されるJJY時報を受信して、いつも正確な時刻を刻んでいます。
国立天文科学館の誘致
天文科学館設置の背景
翌1957(昭和32)年には、7月から1年半にわたって、国際観測年(IGY)が設けられました。 また、同年10月4日、ソ連で人類最初の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられ、「宇宙元年」とさえ言われました。 日本が初めて南極大陸に「昭和基地」を設けたのもこの時代です。 明石市民は、このような時の動きに敏感でした。 同年11月25日「国際地球観測年記念標準時子午線事業期成会」を結成。翌1958(昭和33)年1月には天文科学館の概要計画も出来上がりました。 1958(昭和33)年11月7日、明石市議会に対して議案「明石市立天文科学館設置のこと」を提案。同年12月2日可決。 市立天文科学館の建設にゴ一サインが出たのです。 天文科学館の建設
プラネタリウム
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ここにもある135°マーク
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